杜の都ふるさと便 

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被災の多賀城・八幡神社 鎮守の森を復活させるための植樹祭が14日に行われる

鎮守の森 豊かに復活へ 被災の多賀城・八幡神社
 

 東日本大震災の津波で被災した多賀城市の八幡神社で14日、地域住民に親しまれた鎮守の森を復活させるための植樹祭があった。住民やボランティアら約1000人が参加した。

 

 タブノキ、シラカシ、ヤマザクラなど25種類の苗木約6000本を、神社を取り囲むように植えた。植え方の配置などは、広葉樹を中心に多様な樹木を組み合わせた植樹を提唱している宮脇昭横浜国立大名誉教授が監修した。


 同市多賀城八幡小5年生(10)は「スコップで穴を深く掘るのは難しかったが、うまく植えることができた。大きく成長してほしい」と話した。


 八幡神社は平安時代、坂上田村麻呂が末の松山(同市八幡)に勧進し、鎌倉時代に現在の場所へ移った。震災前は境内に約800本の杉があった。


 東日本大震災の津波で本殿は、杉林に守られる形で大きな被害はなかった。だが杉は間もなく枯れ始め、全て伐採された。
 八幡神社の鍵三夫宮司(塩釜神社宮司)は「かつての杉のように大きく育ち、地域を守る森に育ってほしい」と話した。


 植樹祭は、日本財団が宮城、岩手、福島の被災神社で行う「鎮守の森復活プロジェクト」の一環。

 

★多賀城市(たがじょうし)は、宮城県のほぼ中央に位置する都市である。旧宮城郡。市の名称は陸奥国府「多賀城」に因む。

仙台市の北東側に隣接するため、同市のベッドタウンとしての性格も持ち合わせている。同市への通勤率は43.2%(平成22年国勢調査)。


面積
19.69km²
 

総人口
62,673人
 (推計人口、2015年5月1日)

人口密度
3,180人/km²

概要

仙台市の北東に位置し、市街地は丘陵地帯上にある。市名の由来は古代国府の多賀城よりとっている。昭和17年(1942年)に海軍工廠が設置されて以降、市南部に工業立地が進んだ。仙台港の開港もこれに拍車をかけている。仙台市中心部より鉄道をはじめアクセスが良好であることから、仙台都市圏の一角をなすベッドタウンとしても位置付けられ、市西部の水田地帯では住宅地の造成が進められている。1980年代にかけては、当時政令指定都市への昇格のための規模拡大を目指していた仙台市からの合併要求もあったもののこれを受け入れずに、市としての“独立”を保った。

町は街道(国道45号)沿いに発展してきたため、商店はロードサイド店が多く、“市の中心部が存在しない”という特徴をもつ。

●歴史

旧石器時代から弥生時代まで

市内に点々とする丘陵に立地する柏木遺跡と志引遺跡から旧石器時代の石器が見つかっている。

縄文時代前期には金堀貝塚があり、晩期には松島湾に近い橋本囲貝塚などで盛んに製塩土器を使った塩作りが行なわれた。後の多賀城市域に限らず、松島湾沿岸は貝塚と製塩土器・遺構が集中して分布する地域であった。

弥生時代には、市内の五万崎地区から石包丁が出土している。枡型囲貝塚で見つかった籾の痕跡を残した土器は、山内清男の論文「石器時代にも稲あり」を生み、考古学史上著名である。市内の低地で水田稲作が営まれたと考えられるが、住居は見つかっていない。

古墳時代

古墳時代から竪穴住居の集落が確認できる。山王遺跡と隣接する新田遺跡は一続きの大きな集落で、他に高崎遺跡があり、後に多賀城廃寺が造られる場所にも小さな集落があった。付近には水田跡も見つかっている。海岸の大代地区には漁業に従事する人々が暮らしていたようである。

古墳時代の前期には、五万崎地区に方形周溝墓が営まれた。古墳としては小型の円墳である稲荷殿古墳や丸山囲古墳が築かれたが、前者は7世紀後半、後者は年代不明である。稲荷殿古墳が作られた時期には、崖に大代横穴墓群、橋本囲横穴墓群、田屋場横穴墓群といった横穴墓が盛んに作られた。

古代の陸奥国府

8世紀に市域北西部の丘陵に多賀城が築かれた。多賀城創建時、陸奥国は一時的に石背国・石城国・陸奥国に三分されていた。分割された陸奥国は今の宮城県よりやや狭い範囲で、多賀城はそのほぼ中央にある。それまで郡山遺跡にあった陸奥国府は、神亀元年(724年)に造営なった多賀城に移ったと推定されている。分割は数年後に改められ、ふたたび今の福島県から宮城県に及ぶ広い陸奥国に戻ったが、多賀城はその広い陸奥国の国府であり続けた。

多賀城には9世紀初めまで鎮守府も置かれ、出羽国まで含めた東北地方の政治・軍事の中心都市であった。日本全体の中でも、西の大宰府に対応する東の政治都市として重要な位置にあった。城郭の南には町が広がり、当時七北田川が合流して流量が多かった砂押川に橋がかけられ、舟による運送があった。奈良時代から平安時代はじめまで断続的に続いた蝦夷との戦いの中で、宝亀11年(780年)には伊治呰麻呂の反乱で攻め寄せてきた軍勢により略奪放火されたが、すぐに再建された。

中世

多賀城は平安時代の10世紀半ばまで機能したが、発掘調査ではその後国府にあたるような規模の痕跡が見つかっていない。にもかかわらず多賀国府は南北朝時代まで依然として史料に現われるので、国府は多賀城のそばで中世都市の遺跡がある仙台市宮城野区岩切あたりに移動したと考えられている。

1189年、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすと、頼朝は側近の伊沢家景と葛西清重を奥州惣奉行に任命した。伊沢家景は陸奥留守職となり、多賀城の留守所長官として現在の利府町に定住した。その子孫は留守氏と呼ばれ、代々、東北地方を支配した。
室町時代、管領家・斯波氏の一族である大崎氏が奥州探題に任命され、現在の大崎市を本拠地として東北地方を支配した。

近世
戦国時代、戦国大名・伊達政宗は東北地方(奥羽)の南半分を征服して“奥羽の覇者”となったが、1590年(天正18年)、政宗は豊臣秀吉に服属し、秀吉は日本統一を達成した。秀吉は政宗が扇動した葛西大崎一揆を経て、政宗の領土を現在の山形県南部・宮城県南部・福島県から宮城県・岩手県南部へと、北へ追いやった。1591年(天正19年)、政宗は岩出山城を居城として伊達領を形成した。こうして現在の多賀城市域を含む宮城郡は、伊達領の一部となった。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いを経て、1601年、伊達政宗は仙台城を居城として仙台藩62万石を築いた。これ以降1871年(明治4年)の廃藩置県まで、現在の多賀城市域を含む宮城郡は仙台藩の一部となる。尚、現在の多賀城市八幡地区に当たる八幡村には伊達家の準一家である天童氏が居館を置き、一帯を治めた。

近現代
1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴い、新田村、山王村、南宮村、高橋村、浮島村、市川村、高崎村、八幡村、東田中村、留ヶ谷村、下馬村、笠神村、大代村の13村が1村となり、陸奥国府の名をとって宮城郡多賀城村が発足。
1951年(昭和26年)7月1日、町制施行に伴い多賀城町となる。
1964年(昭和39年)3月3日、多賀城町を含む仙台湾地区が新産業都市に指定された。すると、新産業都市建設促進法第23条に基いて多賀城町や仙台市を含む8市町村で「仙塩合併」が議論されたが、撤回された。
1969年(昭和44年)1月10日、現在の市章である町章を制定する。
1971年(昭和46年)11月1日、市制施行(県下9番目)。
1998年(平成10年)12月1日、仙台市と境界変更。
2009年(平成21年)4月1日、仙台市と境界変更。
2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災により被災。
2013年(平成25年)7月1日、仙台市と境界変更。


名所・旧跡

奈良・平安時代に陸奥国府・多賀城がおかれていたため、多くの文化財や名所が残る。

特別史跡 「多賀城跡附寺跡」 多賀城跡
多賀城碑(重要文化財)
多賀城廃寺跡
館前遺跡(国司の居館跡)
柏木遺跡(製鉄所跡)


東北歴史博物館
末の松山
沖の井(沖の石)
浮島神社
野田の玉川
おもわくの橋
観光スポット・祭事・催事[編集]

祭り
陸奥総社宮例大祭・八幡神社社例祭
史都・多賀城花と緑のふれあいまつり
多賀城跡あやめまつり

出身の有名人
山寺宏一 (声優 俳優)
結城心一(漫画家)
安藤みのり(タレント)
石森太二(プロレスラー)
太田裕哉(プロ野球選手)
郷古廉(ヴァイオリニスト)
吹谷しのぶ(フリーアナウンサー)
千葉雄大(俳優)