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宮城県白石市のきちみ製麺が大坂夏の陣から400年を記念し、白石温麺(うーめん)「幸村の願い」を発売

幸村と小十郎「夏の陣400年」温麺に見参
 

 宮城県白石市の製麺業きちみ製麺は、戦国武将真田幸村と白石城主片倉小十郎重長が戦った大坂夏の陣から400年を記念し、白石温麺(うーめん)「幸村の願い」を発売した。

 戦いのさなか、幸村が娘の阿梅(おうめ)を重長に託し、阿梅は重長の後妻となった経緯を踏まえ、3人それぞれのイラストを温麺の束に巻いた。阿梅の束は梅の粉末を練り込んで紅白に仕上げた。

 吉見光宣社長の先祖は片倉家の家臣で、片倉家の許可を得て旗印「黒つりがね」を商標に使っている。担当者は「来年は大河ドラマ『真田丸』が始まる。商品を通して白石とつながりのある歴史秘話を知ってほしい」と期待する。

 1袋(100グラム3束入り)税込み476円。本店やインターネットなどで3000袋の限定販売。連絡先は0224(26)2484。


★真田幸村
真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。真田昌幸の次男。「真田幸村(さなだ ゆきむら)」の名で広く知られている。

江戸時代初期の大坂の陣で豊臣方の武将として活躍し、特に大坂夏の陣では、3500の寡兵を持って徳川家康の本陣まで攻め込み、家康を追いつめた。

後世に江戸幕府・諸大名家の各史料にその勇将振りが記録され、それらを基に軍記物や講談や小説などが創作されて、真田十勇士を従えて宿敵・徳川家康に果敢に挑む英雄的武将として語られるようになり、庶民にも広く知られる存在となった。

生涯

出生から真田氏の自立

永禄10年(1567年)(一説には永禄13年(1570年))、真田昌幸(当時は武藤喜兵衛)の次男として生まれたとされる。母は正室の山手殿。

真田氏は信濃国小県郡の国衆で、信繁の祖父にあたる幸綱(幸隆)の頃に甲斐国の武田晴信(信玄)に帰属し、伯父の信綱は先方衆として信濃侵攻や越後国の上杉氏との抗争、西上野侵攻などにおいて活躍している。父の昌幸は幸綱の三男で、武田家の足軽大将として活躍し武田庶流の武藤氏の養子となっていたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田氏を継いだ。

幸綱は上野国岩櫃城代として越後上杉領を監視する立場にあったが、昌幸も城代を引き継いだ。信繁は父に付き従い甲府(甲府市)を離れ岩櫃に移ったと考えられている。天正7年(1579年)には武田・上杉間で甲越同盟が締結され上杉方との抗争は収束するが、一方で相模国の後北条氏との甲相同盟が破綻したため、上野国は引き続き緊張状態にあった。

天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、真田氏は織田信長に恭順して上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵された。同年6月に本能寺の変により信長が横死すると武田遺領は空白域化し、越後国の上杉氏、相模の後北条氏、三河国の徳川家康の三者で武田遺領を巡る争いが発生する(天正壬午の乱)。真田氏は上杉氏に帰属して自立し、天正13年(1585年)には第一次上田合戦において徳川氏と戦っている。この際に信繁は上杉氏のもとに人質として置かれ、信繁には徳川方に帰属した信濃国衆である屋代氏の旧領が与えられたという。

織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると昌幸は豊臣政権に帰属し、独立した大名として自立する。信繁は人質として大坂に移り、のちに豊臣家臣の大谷吉継の娘を正妻に迎えている。天正18年の小田原征伐に際しては父昌幸と共に従軍し、石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに参戦したと伝えられる。文禄3年(1594年)11月2日、従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜される。

豊臣政権期の信繁の動向は史料が少なく、詳細はわかっていない。文禄3年の叙任も史料自体はあるものの、さらに確認のための別の史料による裏付けは困難でもある。なお、年月不詳だが、伏見に滞在していた頃に出したとみられる信繁の書状が残っている。

関ヶ原の合戦

秀吉死後の慶長5年(1600年)に五大老の徳川家康が同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすとそれに従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)のため東軍についた兄・信之と袂を分かつことになる。

東軍のうち、徳川秀忠(家康の三男)勢は中山道制圧を目的として進軍し、昌幸と信繁(幸村)は居城上田城に籠り、秀忠の大軍を城に立て籠もって迎え撃った(第二次上田合戦)。少数の真田隊に手こずった秀忠勢は家康からの上洛を命じられ、攻略を諦めて去った。

また、秀忠勢が去った後も海津城将の森忠政は葛尾城に井戸宇右衛門配下の兵を置いて上田城の動きを監視させていた。これに対して信繁は9月18日と23日の2度討って出て、夜討と朝駆けを敢行している。

三成率いる西軍は、9月15日、徳川軍主力といえる秀忠率いる3万5千の兵の到着以前に関ヶ原で敗北を喫する。昌幸と信繁は、本来なら敗軍の将として死罪を命じられるところだったが、信之とその舅である本多忠勝の取り成しで紀伊国九度山に配流を命じられるにとどまった。

蟄居中の慶長16年(1611年)に父・昌幸は死去。慶長17年(1612年)に信繁は出家し、好白と名乗った。

大坂入城

慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化する。大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣して黄金200枚、銀30貫を贈った。信繁は国許(上田)にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助幸昌と共に大坂城に入った。

大坂冬の陣


慶長19年(1614年)に開戦した大坂冬の陣では、信繁は当初からの大坂城籠城案に真っ向から反対し、先ずは京都市内を支配下に抑え、近江国瀬田(現在の滋賀県大津市。瀬田川の瀬田橋付近)まで積極的に討って出て徳川家康率いる軍勢を迎え撃つよう主張した。その作戦案に浪人衆は賛成を表明するが結局受け入れられずに終わる。

しかし大坂城への籠城策が決定すると、信繁は真っ先に豊臣秀吉が生前、築城の際に悩み込んだ大坂城の唯一の弱点であったとされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し、先鋒隊に大打撃を与えた。徳川勢はおびただしい死傷者を出して撤退に至った。

この戦闘で真田信繁は、初めてその武名を天下に知らしめることとなる(真田丸の戦い)。

なお、この真田丸を造る際、大野治長を始めとする豊臣方の他の武将は、これを信繁が徳川方に寝返るための下準備と疑っており、少々ながらも警戒していた。

冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に真っ先に取り壊されてしまった。そして豊臣方の弱体化を謀る家康は慶長20年(1615年)2月に、使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し、「十万石下さるべく候旨」条件を提示し寝返るよう説得している 。信繁がこれを断ると、家康は再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出た。これを聞いた信繁は「この信繁、十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と再びはねのけたという。

大坂夏の陣

慶長20年(1615年)年の大坂夏の陣では、道明寺の戦い(5月6日)に参加。伊達政宗隊の先鋒(片倉重長ら)を銃撃戦の末に一時的に後退させた。

ただし、この道明寺の戦いでは、先行した後藤基次隊が真田隊が駆けつける前に壊滅し、基次は討死している。この大幅な遅れの要因としては、当日の濃霧のため、真田隊が行路を誤ったためとする史料がある。

また、毛利勝永隊はこの時、真田隊より早く戦闘現場に着陣済みで、真田隊の到着を待っていた。しかも当日の指揮権は、大坂城内の譜代の大野治長が持っていた。そのため、後藤基次討死の責任が、信繁や勝永ら現場の武将にあるとは断定できない。

しかし、所定の時間に着陣できなかった信繁は毛利勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)殿らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。

これを聞いた毛利勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と信繁を慰留、自らは退却に移った。ここで真田隊は殿軍(しんがり)を務め、追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させた。

この撤退戦の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。この言葉は後世にまで語り継がれた。

ただし豊臣方はここまでに後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、疲弊していった。真田信繁は兵士の士気を高めるためには、豊臣秀頼本人の直接の出陣あるのみと直訴したが、豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれ、秀頼の出陣は困難を極めた(5月7日)。

5月7日、信繁は大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている。

しかし毛利隊が合図を待たずに射撃を開始してしまったため、作戦を断念せざるを得なくなった。これを受けて信繁は、「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ」とつぶやき 、真っ正面から真一文字に家康本陣のみに狙いを定めて突撃を敢行した。この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦し、徳川勢は壊乱して総崩れの観を呈するに至った。中でも信繁率いる真田隊は、越前松平家の松平忠直隊・15,000の大軍を突破し、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ、後方の家康本陣に突入。親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙した。

ちなみに、家康の本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり真田隊の凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったという話も伝わる。奇しくも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる。

しかし数度に渡る突撃戦により部隊は消耗し、兵力で勝る徳川勢に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、傷つき疲れた身体を休ませていたところを松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、「わしの首を手柄にされよ」と最後の言葉を残して討ち取られた。享年49


★片倉小十郎重長
片倉 重長(かたくら しげなが)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。仙台藩伊達氏の家臣。片倉景綱の子。伊達政宗・忠宗・綱宗の3代に仕えた。白石城主。幼名・通称は弥左衛門、左門、左衛門。通称は片倉家の当主に代々引き継がれた小十郎である。名ははじめ重綱で、江戸幕府3代将軍徳川家光の嗣子・家綱の諱字を避けて重長と改名した(本ページでは重長で統一する)。

妻は針生盛直の娘、後妻は阿梅(真田信繁(幸村)の娘)。子に松前藩初代藩主・松前慶広の八子松前安広の妻・喜佐(針生氏の子)。男子が無かったため松前安広と喜佐の子の外孫景長を養子とした。

生涯
天正12年(1584年)12月25日、出羽国置賜郡下長井荘宮村片倉館において、伊達氏の家臣・片倉景綱の子として生まれる。

天正19年(1591年)、伊達成実を烏帽子親として元服した(この時の名乗りは重綱)。同年、重長は主君・政宗や父・景綱とともに京都伏見に登り、慶長4年(1599年)まで滞留し、その間に太閤・豊臣秀吉から御羽織を賜った。

慶長5年(1600年)7月、関ヶ原の戦いの白石城の戦いでは、亘理城の留守居役を命ぜられていたが、父とともに従軍し初陣を飾る。慶長6年(1601年)9月、主君・政宗の京都伏見御登の御供として、父とともに同行、慶長7年(1602年)1月の豊臣秀頼や同年7月の小早川秀秋にそれぞれ拝謁し、慶長8年(1603年)に主君・政宗とともに帰城した。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、病中にあった父に代わって政宗に従い参陣し、敵将の後藤基次を討ち取るなどの功績を立て大いに名声を上げた。父からは、一軍を預かる将として刃を交えることなどあるまじき行為として叱咤をうけたが、世間は父に劣らぬ智勇兼備の名将で「鬼の小十郎」と称された。

元和元年(1615年)10月14日、父の景綱が死去すると家督を継いだ。

元和6年(1620年)、重長の正妻は江戸に證人として滞在していたが、真田氏の阿梅を継室として迎え入れた。阿梅は当初、大坂落城後に誰の女か知らないまま侍女とされたが、真田氏の旧臣が慕いて片倉家を訪れ、真田信繁の娘であったことを初めて知ったという。この真田旧臣は三井と称し、以後片倉家に仕えた。なお、重長の正妻は寛永3年(1626年)7月に江戸屋敷にて死去した。

寛永13年(1636年)4月、主君・政宗が参勤交代により江戸に向かう途中、白石城に一泊し、養嗣子の景長とともに拝謁する。これが政宗との今生の別れとなったのであるが、この時、政宗は「国の久しいことを心がけ、よく取りはからってほしい」(政宗公御名語集)と重長に後事を託したという。

慶安4年(1651年)12月28日(1652年1月)、主君・伊達忠宗より仙台藩の家格中の「一家」の座を賜る。

万治2年(1659年)3月25日に死去、享年76。法名は一法元理真性院。死後、養子となった外孫の景長が家督を継いだ。

系譜
父:片倉景綱
母:矢内重定の娘
正室:針生盛直の娘 1子:喜佐(松前安広室)

後室:阿梅(真田信繁の娘) 養子:三之助(松前安広の子、のちの景長。実母は喜佐)


逸話
重長の母が重長を懐妊した時、主君伊達政宗は前年に家督相続したばかりでまだ嫡子がなかった。このため、父・景綱は、「伊達家に嫡男誕生までは片倉家に慶事罷りならぬ」として生まれた子は直ちに圧殺するつもりであった。これを聞いた政宗は、「その方の言い分もあろうが思いとどまってもらえないだろうか。子を殺害するようなことがあればその方を恨むぞ。わしの顔に免じてどうか助けてやってほしい」という書状を景綱に出している。
美貌の持ち主であり、男色家として知られる小早川秀秋が彼をつけまわしたとの話が残る(『片倉代々記』中『二代重長譜』にこの記述がある)。また主君である政宗とは衆道関係にあったという説もある。

大阪の陣のおり、主君を失った真田昌幸・信繁父子の家臣を保護しており、大坂夏の陣の決戦前夜、5月6日の夜に真田信繁の子を何名か保護し、その中の一人阿梅を後に継室として迎え入れている(一説には奮戦する重長を大坂の戦場で見た信繁が、この将ならばと、片倉の陣に矢文を送り婚姻の儀申し入れたといわれている)。

また、保護された信繁の次男真田守信(当時は大八)は片倉家の居城白石で養育され、信繁の子の中で唯一真田姓を継いだ男児となった。