杜の都ふるさと便 

東日本大震災の復興・再生を祈願してみちのく&杜の都のニュースや話題等お伝えしています。

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新しいファッションビル「仙台パルコ2」が2016年7月1日、仙台市青葉区のJR仙台駅西口にオープン 仙台商圏、JR仙台駅前地区に集中?

パルコ(東京)の新しいファッションビル「仙台パルコ2」が2016年7月1日、仙台市青葉区のJR仙台駅西口にオープンした。ペデストリアンデッキと直結する2階正面入り口には開店前、約500人の行列ができた。駅からのアクセスの良さもあり、多くの買い物客で終日にぎわった。


 パルコ2は地下2階、地上9階、店舗数は84。東北6県の工芸品・雑貨を扱う「東北スタンダードマーケット」などの生活雑貨店や衣料品店を充実させ、1階には飲食店街が入る。6~9階にはシネマコンプレックス(複合型映画館)「TOHOシネマズ仙台」が開館。


 パルコ2は地上9階、地下2階で延べ床面積は約2万5000平方メートル。1~5階に衣料品や雑貨など東北初出店の38店を含む84店が入店。6~9階にTOHOシネマズ(東京)が運営するシネマコンプレックス(複合型映画館)が入る。

 全84店で構成し、うち東北初出店は38店。衣料品店の比率を約3割に抑え、全てのフロアにカフェを配置。既存の仙台パルコでは物足りない客層に目を向け、「単なるモノの売り場から、コト消費の発想へ進化させ、さまざまな生活シーンの演出ができる品ぞろえ・フロア環境を目指した」と同社。

 フロア構成は以下の通り。1階=レストラン&カフェ「ダイニングマルシェ パルイチ」、2階=ファッション・コスメ・フード・ライフスタイルグッズ、3階・4階=ファッション&ビューティー、5階=ファッションライフスタイルグッズ、6~9階=9スクリーン・約1700席のシネマコンプレックス「TOHOシネマズ 仙台」、屋上=多目的広場。


 パルコ2は、2008年8月オープンの仙台パルコに続く店舗。30代以上を主なターゲットに、年間売り上げ約70億円を目指す。

投資額は約75億円。年間売上高目標は70億円で、仙台パルコ本館と合わせて200億円を目指す。

 

仙台商圏で、JR仙台駅前地区の集中状態が続いている。
東口と西口を結ぶ東西自由通路が3月に生まれ変わり、人の流れが駅へと向かう中、2016年7月1日には西口に仙台パルコ2がオープンした。東口ではさらに再開発が計画されており、駅周辺の人を集める力は今後も勢いを増す。


 駅周辺の通行量は平日、日曜とも大幅に増え、調査7地点でトップとなった。中心商店街がある青葉区の中央通、一番町両地区は計6地点のうち5地点で減らし、駅周辺と明暗が分かれた。そこにパルコ2が加わった。併せて、2006年以来となる大型映画館も仙台中心部で復活した。


 仙台駅東口には、家電量販大手のヨドバシカメラ(東京)が18年秋に大型商業ビルの開業を計画している。JR東日本も17年夏のオープンに向け、ホテルの建設を進めている。

 仙台の卸業者は「駅周辺のライバルとなる仙台の中心商店街の危機感は強いが、今後は東口の開発が進む。人の流れは駅周辺に集中する一方だ」と言う。

 中心商店街の受け止めは複雑だ。「駅周辺は若者向け。商店街は百貨店を核に、高齢者層を対象に高級路線を進めて差別化できる」と楽観視する声もあれば、「駅周辺に人が奪われ続ければ厳しい」と話す関係者もいる。

消費者としては駅前グループと中心商店街がそれぞれ特徴を出し、共存共栄し、消費者にも還元してもらいたいものです。 

 

●仙台PARCO仙台市青葉区。2008年(平成20年)8月開店。仙台マークワンの地下1階から地上9階部分を所有。仙台PARCO2は 2016年(平成28年)7月に開店。シネマコンプレックス「TOHOシネマズ仙台」を併設。

 

★パルコ

株式会社パルコ (英: PARCO CO., LTD.) はファッションビル「PARCO (パルコ)」 を展開する日本の企業。PARCO以外の商業施設も展開している。Jフロントリテイリングの連結子会社である。
 
登記上の本店は東京都豊島区南池袋に、本社事務所は渋谷区神泉町に所在する。
 
●概要
 
国内外でファッションビル「PARCO」を19店舗展開している。他に、PARCO劇場、CLUB QUATTRO、TOKYO FM渋谷スペイン坂スタジオ、radio drive plusなどの劇場やライブハウス、ラジオ番組など、文化・ソフト事業も幅広く手がけている。
 
かつて堤清二が率いた西武百貨店を中核としたセゾングループの一角を成したが、パルコについては直接関与せず、全面的に増田通二に託し自由を与えた経緯から、独特の個性が出来上がった[1]。セゾン系本流とは別にパルコ独自の劇場や出版社を持ち、広告手法も異なった。パルコは若年層、西武百貨店は中高年層を主な顧客ターゲットにして棲み分けがなされているが、西武百貨店がない地域にある一部のパルコでは、ターゲット層をやや上の年齢層まで広げている。
 
近年はパルコとは別業態の「ZERO GATE」(ゼロゲート)という中低層商業ビルの出店を進めている。
 
社名のPARCOは、イタリア語で公園を意味するParcoから由来している
 
●年表
1953年(昭和28年)2月 - 「池袋ステーションビル株式会社」(現在のJR東日本の関連会社とは無関係)として設立。
1954年(昭和29年)10月 - 株式会社丸物(現・近鉄百貨店)が出資。
1957年(昭和32年) 5月 - 商号を「株式会社東京丸物」に変更。
12月 - 百貨店「東京丸物」が開店。
 
1963年(昭和38年)7月 - 株式を店頭登録。
1969年(昭和44年) 6月 - 百貨店「東京丸物」が閉店。
11月 - 1号店「池袋パルコ」が開店。
1970年(昭和45年)4月 - 商号を「株式会社パルコ」に変更。
1987年(昭和62年)1月 - 東京証券取引所市場第二部に鞍替え。
1988年(昭和63年)8月 - 東京証券取引所市場第一部指定。
1990年(平成2年)- 西友から地方専門店ビル「ウォーク」を継承。
1995年(平成7年)- 西洋環境開発の子会社であったウェイブの株式を購入。
1996年(平成8年)- 西洋環境開発の子会社であった日本乗馬倶楽部の株式を購入。
1998年(平成10年)- リブロの経営を西友から引き受ける。
2001年(平成13年)2月 - ウォークを解散。
2002年(平成14年)2月 - 日本乗馬倶楽部をMBOによって株式を売却。
2003年(平成15年) 7月15日 - リブロを日販に売却。
7月30日 - 子会社であった株式会社アクロスを解散。
 
2004年(平成16年)2月29日 - 子会社であった株式会社クレストンホテル及び株式会社冨貴堂を解散。
2004年(平成16年)4月 - ウェイブをタワーレコードに売却。
2005年(平成17年)10月11日 - 本部を東京都渋谷区宇田川町4-3より移転。
2009年(平成21年)6月 - 完全子会社であった株式会社ホテルニュークレストン及び資産をHMIホテルグループに事業譲渡。
2012年(平成24年) 8月21日 - J.フロント リテイリングによるパルコに対するTOB成立。
8月27日 - J.フロントの子会社化。
 
 
 

 

2016年4月11日東日本大震災の月命日行方不明者の捜索行われる 桜満開の中なごり雪?

2016年4月11日

仙台では朝からひとひらの雪が、ちらほらと降り始め、やがて風花のように舞いだした。

桜は満開だというのになごり雪であろうか。気温は7℃~10℃である。さぶ~い。

今日は東日本大震災(2011年3月11日)の月命日。

東日本大震災の行方不明者の捜索を巡り、宮城県警が月命日の一斉集中捜索を見直す方針を決めてから初めての11日を迎えた。

沿岸9署のうち、気仙沼、南三陸、河北3署が捜索を実施する一方、残る6署は見送った。気仙沼署は次回以降、月命日にこだわらず家族の要望に応じる方式に改めるという。

 南三陸町歌津の中山漁港周辺では、南三陸署員9人が堆積物をレーキでさらった。石巻市雄勝町では、河北署員8人が海岸線を車で移動し手掛かりを探した。

 この日、最も規模が大きかったのは気仙沼市本吉町小泉地区。気仙沼署員と一般社団法人「気仙沼復興協会」が受け入れたボランティアら約30人が、沼地から重機で運び出した土砂を丹念に調べた。

 捜索を実施した3署が所在する県北の沿岸部は湾と岬が入り組むリアス式海岸。直線的な県南部より捜索が難しく、不明者も多い。

 一方、石巻、塩釜、仙台東、仙台南、岩沼、亘理の6署は「用地のかさ上げ工事が進み、捜索できる場所が狭まった」(亘理)「家族らの要望を踏まえた方が効率的」(仙台東)などを理由に月命日に限定しない方針だ。

 管内に212人の不明者がいる南三陸署の次長は「住民の要望にその都度応じるのはもちろん、低気圧の直後など潮の流れを見て効率的な捜索を目指す」と強調する。

 気仙沼では気仙沼復興協会が月命日を中心にボランティアを受け入れ、2015年度は捜索などに約4000人が参加した。事務局長は「気仙沼には220人の不明者がいる。帰りを待つ家族のためにも、私たちが11日を忘れないためにも月命日に捜索を続けたい」と話す。

 県警は震災直後から連日捜索を実施。13年4月11日以降、月命日の一斉集中捜索に切り替えた。12年4月に石巻市雄勝町の海岸で人骨が見つかって以来、有力な手掛かりはつかめていない。

 

宮城県では死者 9,541人、行方不明者 1,236 人 2016年3月10日現在

東日本大震災の行方不明者の捜索を「月命日にこだわらず家族の要望に応じる方式に改める」


というが第一にあいまいな意思決定であり、第二に、月命日および東日本大震災という記憶が風化するような気がする。

毎月11日という月命日に東日本大震災の行方不明者の捜索が「定期的」に行われるのが望ましいし、みんなで冥福を祈る日とし、防災関連の確認日とするのがよろしかろう。


そしてそれが残されたものの責務であろう。

残されたものとしては生かされたことに感謝をし、死者の分まで生き抜き、冥福を祈りたい。

仙台・あすと長町に3月11日、ライブハウス「チームスマイル・仙台PIT」がオープン「つなげよう、感動。つながろう、東北の笑顔」

仙台・あすと長町に3月11日、ライブハウス「チームスマイル・仙台PIT」(仙台市太白区あすと長町2)がオープン

 仙台・あすと長町に3月11日、ライブハウス「チームスマイル・仙台PIT」(仙台市太白区あすと長町2)がオープンした。運営主体は一般社団法人「チームスマイル」(東京都渋谷区)。

 敷地面積は約2600平方メートル、ホール面積は1300平方メートル。客席は1階のみで約1200人(スタンディング)を収容する。総開設費用は約12億5,000万円。うち約3億1,000万円はロックバンド「プリンセス プリンセス」が再結成活動で集めた義援金寄付によるもの。

 同バンドは2012年1月6日、被災地の復興・復旧支援のため約16年ぶりに再結成し、年内限定で活動を行った。仙台サンプラザホール、日本武道館、東京ドームの計全8公演で延べ13万人を動員し、コンサートチケット代とCD販売の収益金は約5億1,000万円に上った。

 同活動を通じ、義援金として被災地の地域医療支援、東北エリアでの教育支援に充てたほか、最も大きな3億1,000万円の支援先については「1回で終わらない支援はないだろうかと考えた」(ボーカルの岸谷香さん)という。「プリプリの音楽を通して集まったお金で音楽にまつわる支援ができれば、皆も納得、私たちも納得だねということで考えてきた」とも。

 支援により完成にこぎ着けた同ライブハウスを見た岸谷さん。「たくさんのファンの人の気持ちが全部一個になった結果が、この形、この会場になったんだなと思うと、実際、建物を見てやっぱりグッときた」と話す。

 迎えた3月11日のオープン初日。2012年12月31日の第63回NHK紅白歌合戦出演以来、プリンセス プリンセスが再集結し、こけら落としライブ「PRINCESS PRINCESS TOUR 2012-2016 再会 -FOR♡EVER-」を行った。「OH YEAH!」「世界でいちばん熱い夏」「ジュリアン」「GET CRAZY!」「M」「Diamonds」などアンコール含め全18曲を披露し、東北を中心とする各地から訪れた満員の観客を沸かせた。

 同ライブはWOWOWでの生中継のほか、「チームスマイル・豊洲PIT」(東京都江東区)と全国の映画館33会場でライブビューイングも実施。リーダーの渡辺敦子さんは「皆さんのたくさんの思いが込められたここ仙台PITの新たなステージで、会場の皆さん、テレビの前、全国各地の映画館のライブビューイングの皆さんを通して、一つになった。生涯忘れることがない」と手応えを話した。

 同バンドは同所で12日・13日も公演を行い、豊洲PITで25日・26日に行う公演がラストライブとなる。渡辺さんは「復興は目に見える形、目に見えない心の復興どちらも大切だと思う。プリンセス プリンセスは幕を閉じるが、仙台PITは今日からスタート。私たちの姿形こそそこになくても、私たちの心の中に、そして皆さんの記憶の中に生き続けると信じている。応援してくださった全ての皆さんに感謝申し上げます」と呼び掛ける。

 


★チームスマイル・仙台PIT

名称 チームスマイル・仙台PIT
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所在地

宮城県仙台市太白区あすと長町2丁目2番地50号
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開業時期

2016年3月11日
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収容人数

約1,200名(スタンディング)
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アクセス

JR東北本線長町駅より徒歩5分
仙台市営地下鉄長町駅より徒歩6分

つなげよう、感動。つながろう、東北の笑顔。

『PIT』は、『Power Into Tohoku!』から名付けました。エンタテインメントのチカラを東北に。
その思いをつなげていくために、チームスマイルは着実にその活動を続けてまいります。

★チームスマイルとは

2011年3月11日の東日本大震災から数年を経て、まさに今、震災復興は“第二段階”を迎えようとしていると思います。決して十分とは言えないまでも、衣・食・住の整備が徐々に進みつつある中、「心の復興」を中心に、被災地の方々と支援者とが想いや感動を共有し、共感し、「共に立ち上がれる仕組み」を、それも継続的に作り出していくことが求められていると思います。

「チームスマイル」と名付けた復興支援のプロジェクトが立ち上がったのは、東日本大震災直後のことでした。関東、東北地区を中心に、コンサートや演劇、スポーツなどの開催中止や延期が続々と決まる中、逆に、エンタテインメントには被災地の方々に勇気や元気を届ける力があるはずだ、そう信じた有志によって、自然発生的に生まれたボランティア活動でした。

以来、チャリティコンサートの開催や復興支援イベントなど、同じエンタテインメント業界に携わる方々とともに様々な活動を続けてきましたが、そんな中、今後を見据えて、実現しなくてはならないことに思いが至りました。それは、支援活動の継続性です。震災後に立ち上がったボランティア活動やNPO活動が次第にその数を減らす中、どうしたら活動を続けていくことができるかが最大の課題でした。

出した答えは二つでした。まずは、一過性のチャリティイベントに閉じない継続的な活動を維持するには、活動拠点の確保が必要です。と同時に、その開設と運営をまかなうための経済性の担保が必須となります。これら二つを解決するべく、私たちはそれまでのボランティア活動を正式に一般社団法人化し、東北三県(福島、宮城、岩手)と東京に、その活動拠点となるシアターを開設することを決めました。これが、『PIT(ピット)』です。

『PIT』は、「Power Into Tohoku!」の頭文字です。多くの企業、団体より篤いご協力やご寄附、ご協賛を賜り、2014年10月には東北三県に先駆け、東京都江東区に「豊洲PIT」がオープンしました。「豊洲PIT」は、スタンディングで約3,100名、着席で約1,500名のホールです。ここでの事業収益金は、文字通り、いわきPIT(福島県いわき市 2015年7月24日オープン)、釜石PIT(岩手県釜石市2016年1月9日オープン)、仙台PIT(宮城県仙台市 2015年3月11日オープン)の3つの東北「PIT」の建設と運営、そしてエンタテインメントを通じた復興支援活動に、その全額が活用されることになっています。

東北の「PIT」では、コンサートや演劇、ライブビューイング等のイベントの他、特に子供たちや若者たちの創作活動へのチャレンジをサポートし、その表現や発表の場を提供します。東京からのコンテンツ供給だけでなく、ワークショップやセミナーなどを通じて、若い世代の夢や才能を養い、地元の子供たちが夢を持って元気に立ち上がれるようなきっかけ作りを進めることにより、被災地の方々自らによる復興を後押ししていきたい考えです。

今週のお題「好きな街」

宮城県七ケ浜町の女性たちが「恩送り」 編んだ毛糸の帽子やブランケットがヨルダン、フィリピン、ネパールに送られ現地の人たちを励ます

東日本大震災で被災した宮城県七ケ浜町の女性たちが編んだ毛糸の帽子やブランケットが、シリアの難民が身を寄せるヨルダン、台風の惨禍が広がるフィリピン、大地震に見舞われたネパールにそれぞれ送られ、現地の人たちを励ましている。編み物グループをつくったのは、同町の外国人避暑地に住む米国出身のテディ・サーカさん(68)。女性たちは、サーカさんが建設した「ヤーン・アライブ・ハウス」に集まり、手を動かし、口を動かしながら、毛糸を編んでいる。

 花渕浜にあるハウスは2015年8月に完成した。赤色の外観が特徴の木造平屋で、宣教師のサーカさん夫婦がアジアの国々から個人的な寄付を受けて建設した。通っている女性は約90人。住んでいる三つの地区ごとに月2回程度集まる。

 倉庫は海外や国内から送られた毛糸であふれんばかり。当初、作った帽子やブランケットなどを気仙沼市や同県女川町の被災者や、福祉施設などに送っていたが、加えてヨルダン、フィリピン、ネパール、モザンビークに送り、紛争や災害で苦しむ人たちを支援するプロジェクトに発展した。

 サーカさんが住民を誘い、一緒に編み物をする活動を始めたのは大震災の3カ月後。仮設住宅の集会所を訪ね、お年寄りに「生きる張り合いを持ってもらいたい」と呼び掛けた。
 「女性は編み物をして手を動かしていると口も動くでしょ。経験したことを自然と話す。ストレス解消になります」とサーカさん。

 ハウス建設を思い立ったのは、活動場所だった仮設住宅の集会所がなくなることに加え、仮設で培ったコミュニティーが災害公営住宅への引っ越しで壊れ、「再びショックを受けるのでは」と心配したからだ。

 近くに住む主婦遠藤安子さん(69)はスタッフとして運営を手伝う。自宅は津波で被害を受けた。「編み物教室がなければ出会わなかった人たちが、和気あいあいと談笑している。皆、ここに来るのを楽しみにしています」と話す。

 サーカさんは「他の人のために何かできるのは素晴らしいこと。ぼけ防止にもなるでしょ」とにこやかに話す。ヤーン(毛糸)・アライブ(生き生き)。その名の通り、ハウスはいつも、女性たちのにぎやかな声であふれている。


★七ケ浜町
七ヶ浜町(しちがはままち)は、宮城県中部の太平洋沿岸に位置する町である。町域は、日本三景・松島の南部を形成している。


面積 13.19 km²

総人口 18,645人 (推計人口、2016年2月1日)

人口密度 1,410人/km²

隣接自治体 仙台市、多賀城市、塩竈市

町の木 クロマツ

町の花 ハマギク

概要

宮城県の中部に位置し、松島丘陵が仙台湾に半島状に海に突き出した形になっている七ヶ浜半島を町域としている。この半島は江戸時代、基部を横断するかたちで貞山運河が造られ、それによって島のような状態となっている。山として韮山、また湖沼には阿川沼がある。

七ヶ浜町は東北地方の市町村の中で最小の面積である。気候は比較的温暖で、寒暖の差が少ない。キャッチフレーズは、「うみ・ひと・まち 七ヶ浜」。

2010年国勢調査 において昼夜間人口比率が65.0%であり、日本の市区町村の中では最も低い値であった。

町名の由来

海沿いに7つの集落があったことから、「七ヶ浜」と名づけられた。

湊浜・松ヶ浜・菖蒲田浜・花渕浜・吉田浜・代ヶ崎浜・東宮浜

※名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

菖蒲田浜海水浴場(全国で3番目に開設された海水浴場)
多聞山(松島四大観の1つ。「偉観」)
高山外国人避暑地
大木囲貝塚(面積197,248m²にして日本最大規模の貝塚)
鼻節神社
総合スポーツセンター
七ヶ浜国際村
小浜港(ヨットハーバー)


※2011年3月11日 東北地方太平洋沖地震により被災
2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本太平洋沖地震では、津波により町の面積の約4分の1が浸水した

 

「ファイト」と声かけあった宮城県東松島市野蒜小学校の閉校行事が2月27日朝行われる「ありがとう野蒜小」

東日本大震災で被災し、本年度で142年の歴史を閉じる東松島市野蒜小(児童131人)の閉校行事が27日朝、同市小野のプレハブ仮設校舎近くの小野地区体育館と、旧校舎前であった。児童は新年度、宮戸小と統合して開校する宮野森小に通う。

 小野地区体育館の式典には在校生や卒業生、住民ら約400人が出席。児童代表2人と相沢日出夫校長らが阿部秀保市長に校旗を返納した。児童全員がそれぞれ最後の1年を振り返り、「ありがとう野蒜小」と声をそろえた。
 校長は式辞で「震災で児童9人の尊い命が犠牲になったことは決して忘れない」と冥福を祈った。
 津波で被災した旧野蒜小校舎前では、閉校記念碑が除幕された。被災で散り散りになった地域住民も集まり、校舎に感謝した。

 震災当時、野蒜小2年だった生徒は、震災で仲の良い同級生を亡くした。「ここに立つと一緒に過ごした時間を思い出す。閉校は寂しいけれど、今までありがとうと言いたい」と話した。
 野蒜小は1873(明治6)年に開校し、これまで約8500人が巣立った。

「ありがとう野蒜小」のメッセージが飾り付けられた閉校式会場では、ともに野蒜小体育館で津波にのまれ、紙一重で助かった卒業生と恩師が久しぶりに再会。2人はそれぞれ災害から身を守る教訓を継承する活動をしており、「あの日を忘れず、語り継ごう」と誓い合った。


 野蒜地区は野蒜小児童9人を含む515人が津波の犠牲になり、指定避難所だった野蒜小体育館も津波に襲われ、少なくとも住民ら13人が死亡した。300人以上が孤立し、児童らが「ファイト」と声を上げて励まし合ったことで知られる。

 あの日、6年生だった生徒は体育館で津波にのまれた。黒い津波が入り口からさーっと入り込む中、高さ約1メートルのステージに上った。周囲は、風呂に水をためるように波で満たされていった。首元まで波が来た時、衣服を着たままプールに入る着衣泳の授業を思い出した。「力を抜いて、水に浮かんで救助を待てば助かる」。思い切って床をけり、両手両足を広げ、水面から顔だけ出し、口で息をした。水が引き、大人たちに2階に引き上げられた。

 もう一人の生徒もステージ付近で津波にのまれ、浮いていた演台にしがみついた。どのくらい時間がたったか分からない。水が引き、両足がステージについた。「このことを忘れちゃいけない」。その瞬間、そう思ったという。

 その後、仙台近郊の小学校に異動。2012年から勤務先でも着衣泳を取り入れた。13年春から2年間、山形大大学院で防災教育を学び、学生らに被災体験を伝えた。「あの日、自分は何もできなかった。津波を体験した教員として、できることをしたい」と話す。

 生徒の一人は昨年から同級生たちと被災体験の「語り部」を始めた。着衣泳で助かった経験から「無駄に思えることでも役立つ時がある。私の話も、どこか頭の片隅に入れて覚えておいてください」と訴えた。
旧校舎には記念碑が設置される。


★東松島市野蒜小学校

明治6年5月第7学区第2中学区第55番小学校として開校 大蔵省旧官舎を校舎とする

学区の概要 
 学区野蒜地区は宮城県の中央東部海岸地区に位置し, 西は松島町に接し,南は石巻湾に臨んでいる。白砂青松の美しい景観に恵まれ,野蒜海水浴場,東名海岸には海水浴や潮干狩りに訪れる観光客が多く,レジャーゾーンとしての発展がめざましい。

1月21日の大寒に七ケ浜町菖蒲田浜では、若手神職らが冷たい海に入って身を清める「大寒みそぎ」が行われる

21日は二十四節気の「大寒」。1年で最も寒さが厳しいころとされる。宮城県内は冬型の気圧配置が続き、この時季らしい寒さとなった。七ケ浜町菖蒲田浜では、若手神職らが冷たい海に入って身を清める「大寒みそぎ」が行われた。

 下帯に鉢巻き姿の男性ら約30人が神事の後、海へ入った。大祓詩(おおはらえことば)を唱え、東日本大震災からの復興を祈った。

「寒かったが、すがすがしい気持ちで無病息災を願った」と話した。

 仙台管区気象台によると、県内の朝の最低気温は仙台が氷点下1.6度、気仙沼が氷点下2.6度、塩釜が氷点下1.5度。いずれも1月上旬から中旬並みの気温だった。

 管区気象台によると、県内は22日も冬型の気圧配置が続き、昼前まで西部を中心に雪の降る所が多い見込み。

 

★大寒(だいかん)は、二十四節気の第24。十二月中(通常旧暦12月内)。

現在広まっている定気法では太陽黄経が300度のときで1月20日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から1/12年(約30.44日)後で1月20日ごろである。

期間としての意味もあり、1月20日~2月3日まで、すなわちこの日から、次の節気の立春前日までである。

西洋占星術では、大寒を宝瓶宮(みずがめ座)の始まりとする。

季節

寒さが最も厳しくなるころ。『暦便覧』では「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」と説明している。実際は1月26日あたりから2月4日あたりまでが最も寒い

寒(小寒 - 立春前日)の中日で、一年で最も寒い時期である。武道ではこのころ寒稽古が行われる。

大寒の朝の水は1年間腐らないとされており容器などにいれ納戸に保管する家庭が多い。


■七十二候

大寒の期間の七十二候は以下の通り。

●初候

款冬華(ふきのはな さく) : 蕗の薹(ふきのとう)が蕾を出す(日本)

鶏始乳(にわとり はじめて にゅうす) : 鶏が卵を産み始める(中国)

●次候

水沢腹堅(さわみず こおりつめる) : 沢に氷が厚く張りつめる(日本)

鷙鳥厲疾(しちょう れいしつす) : 鷲・鷹などが空高く速く飛び始める(中国)厲は{勵-力}

●末候

鶏始乳(にわとり はじめて とやにつく) : 鶏が卵を産み始める(日本)

水沢腹堅(すいたく あつく かたし) : 沢に氷が厚く張りつめる(中国)

前後の節気

小寒 → 大寒 → 立春

 

★七ヶ浜町(しちがはままち)は、宮城県中部の太平洋沿岸に位置する町である。町域は、日本三景・松島の南部を形成している。

概要

宮城県の中部に位置し、松島丘陵が仙台湾に半島状に海に突き出した形になっている七ヶ浜半島を町域としている。この半島は江戸時代、基部を横断するかたちで貞山運河が造られ、それによって島のような状態となっている。山として韮山、また湖沼には阿川沼がある。

七ヶ浜町は東北地方の市町村の中で最小の面積である。気候は比較的温暖で、寒暖の差が少ない。キャッチフレーズは、「うみ・ひと・まち 七ヶ浜」。

2010年国勢調査 において昼夜間人口比率が65.0%であり、日本の市区町村の中では最も低い値であった。

町名の由来

海沿いに7つの集落があったことから、「七ヶ浜」と名づけられた。

湊浜・松ヶ浜・菖蒲田浜・花渕浜・吉田浜・代ヶ崎浜・東宮浜

歴史
縄文時代、“日本最大の貝塚”である大木囲貝塚がつくられた。松島町と共に縄文時代における“日本の中心地”の一つであった。
奈良時代、陸奥国の国府・多賀城に隣接し、国府厨(こくふのくりや)が置かれた。豊富な海産物が多賀城に送られた。
1889年 4月1日 町村制施行により、七ヶ浜村が誕生。
高山外国人避暑地設置。

1959年1月1日 町制施行し、七ヶ浜町となる。
1980年9月 - 汐見台地区(七ヶ浜ニュータウン)分譲開始。
2011年3月11日 東北地方太平洋沖地震により被災
2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本太平洋沖地震では、津波により町の面積の約4分の1が浸水した

●名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

菖蒲田浜海水浴場(全国で3番目に開設された海水浴場)
多聞山(松島四大観の1つ。「偉観」)
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大木囲貝塚(面積197,248m²にして日本最大規模の貝塚)
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七ヶ浜町出身の有名人
大越基(プロ野球選手、高校野球監督)
佐藤仁徳(プロボクサー)
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仙台市榴岡天満宮の梅が2016年1月8日現在、約20本のうち2本で花びらがほころび、他の木もつぼみを膨らませている

記録的暖冬の影響で、榴岡天満宮(仙台市宮城野区)の梅の花が昨年末から咲き始めたということです。

福岡の大宰府天満宮なら納得しますがここはみちのく仙台です。

 天満宮の話によると、開花を確認したのは昨年12月25日だそうです。1月8日現在では、梅の木約20本のうち2本で花びらがほころび、他の木もつぼみを膨らませている。

 天満宮の担当者も「12月に咲いた記憶はない。暖冬傾向とはいえ、びっくりしている」。もともと早咲きで知られる天満宮の梅だが、平年の咲き始めは1月下旬前後。

ここ数年は2月下旬から3月上旬の咲き始めだった。

天満宮からほど近い仙台管区気象台の標本木の場合、平年の開花は2月27日。ことしはまだだという。

早くも梅の便りとはこいつは春から縁起がいいや。

 

★榴岡天満宮

御祭神・菅原道真公は、承和12年(845)に誕生されましたが、この年は乙丑(きのとうし)でありました。

 また、延喜3年にお亡くなりになりましたが、轜車(じしゃ)を「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との御遺言で、その場を墓所と定め、その場所が都府楼(太宰府の庁舎)の北東(丑寅)の方であったなど、多くの牛との関わりや伝承があり、天神さまには牛がつきものとなり、「神使(かみのみつかわしめ)」としてのつながりを持つようになり、撫で牛は御祭神とご参拝の方々をつなぐ大切な役割を果たしています。

 その他にも、「道真公の命日、延喜3年2月25日は丑年の丑の日であった」、「道真公が太宰府に左遷の折に、時平の命を受けた追手が道真公に斬りかかった際、荒れ狂った白牛が飛び出し、追手の腹を突き刺した。これにより白牛にお乗りになって、御心安らかに旅立たれた」という牛にまつわる逸話が多数存在し、道真公と牛との関係が非常に深いことから、全国の天満宮、天神社には撫で牛が祀られております。


■天神さまと梅
天満宮の梅
 全国の天満宮の神紋(しんもん、神社の紋)が梅であるように、菅原道真公と梅には深いつながりがあります。

「美しや 紅の色なる 梅の花
  あこが顔にも つけたくぞある」

 道真公の幼名は「阿呼(あこ)」といい、5歳のとき庭に咲く紅梅を見て、その花びらで自分の頬を飾りたい、という思いでつくられた御歌です。

「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花
  あるじなしとて 春な忘れそ」

 東風が吹いたら、香りをその風に託して太宰府まで送り届けてくれ、梅の花よ。主人である私がいないからといって、春を忘れてはならないぞ。

 太宰府への左遷が決まり、ご家族とも充分な別れも許されないまま京都を離れる際、ご自宅の梅の木に別れを告げる御歌です。後にその梅が太宰府のもとに飛んで行った、というお話もあります。(飛梅伝説)


榴岡天満宮は、学問の神様と言われている「菅原道真」を祀る神社です。拝殿の前には、丑年生まれの道真にあやかって「撫で牛」があり、人々から篤い信仰を集めてきました。

 境内には、江戸時代の俳人・松尾芭蕉による「あかあかと日はつれなくも秋の風」の句碑をはじめ、多くの文人墨客の句碑・歌碑があり、「俳諧碑林」などと呼ばれています。また、仙台で最も早く開花すると言われているウメや、仙台市の保存樹木に指定されているシラカシやシダレザクラの古木もあります。

 毎年、入学試験のシーズンになると、多くの受験生や父兄が合格の願いを託して絵馬を奉納し、参拝する姿が見られます。

 

★仙台市の観桜地として有名な榴ヶ岡に鎮座する榴岡天満宮は、平安時代の天延2年(974)に山城国(現在の京都府)に御創建された。

その後、平将春が陸奥国宇多群(現在の福島県)に勧請し、次に宮城県柴田郡川内村に御遷座したのが始まりで、天文20年(1551)に小俵玉手崎(仙台市青葉区の東照宮の地)に3度目の御遷座が行われた。

後に、藩祖伊達政宗公が仙台城を造営するとき、当社の社木(境内地にあった樹木)を用財として切り取った為、その報祭に慶長16年(1611)に新たに丹塗りの御社殿を造営したが、慶安3年(1650)徳川幕府の命令により東照宮建立に際し、その境内地東側に御遷座がなされた。
そして、寛文7年(1667)7月25日に3代藩主伊達綱宗公の意志により、丹塗りの社殿・唐門を新たに造営し、菅原道真公の真筆(直筆の書)が奉納され、この榴ヶ岡に御遷座された。

当社の御祭神である菅原道真公(天満大自在天神)は、学問・政治の主祭神であり、また弘法大師、小野道風と共に、書道の三聖として詩歌・書道の神としても尊信されている。しかし、道真公の一生は波乱に満ちたもので、時の左大臣藤原時平の讒言により、大宰府へ配流され、悲壮のうちに亡くなられた。

配流の地で亡くなられた道真公が、怨霊天神・火雷天神とも言われる由縁は、没後四十数年後に都に疫病や飢餓・落雷とともに降臨した事から、当時の人々が崇め祀るようになった為と伝え聞いている。
このような歴史的背景を考えると、寛政7年(1795)2月25日に起こった落雷による不慮の火災は、本殿・拝殿・楼門・神楽殿・鳥居と多くの歴史的建造物を焼失し、非常に残念なことであったが、道真公が高天原より降神なされたのでは、という歴史的ロマンを擽る唯一の天満宮である。

現在の御社殿はその頃の再建で、総欅造り、照星閣とも呼ばれ、明治9年の明治天皇御巡幸の際に、明治天皇が御参拝なされた神社である。

また仙台城構築の際の有力な築城の候補地とされ、元禄2年5月7日には当社に、松尾芭蕉が参拝し「ここ玉田よこ野つつじが岡はあせび咲くころ也ここに天神の御社など拝て其日はくれぬ」(奥の細道)という句を遺していることからも、当時の天神信仰が盛んだったことを示している。

 

●榴岡天満宮の梅
所在地/仙台市宮城野区榴岡23
交通/仙石線榴ヶ岡駅下車、徒歩5分
電話/022-256-3878
概要/ 榴岡天満宮は菅原道真公を祀った神社で、境内には筆塚をはじめ歌碑、句碑が多く建てられ「俳諧碑林」として知られているが、また、梅の名所としても知られており、例年3月初旬から咲き始め、春のおとづれを告げる。

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