杜の都ふるさと便 

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宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区 新たに106筆約2万1000平方メートルを買い取る方針

■集団移転のため 閖上移転元の土地買い取り拡大
  
 東日本大震災で被災した名取市閖上地区の集団移転事業で、市は移転元の土地の買い取り基準を一部緩和し、新たに106筆約2万1000平方メートルを買い取る方針を決めた。もともと更地だった土地も買い取る。月内に事業計画変更の大臣同意を得る見通し。


 追加の取得費用は5億6760万円で、全て国費が充当される見込み。閖上地区の災害危険区域で市が買い取る土地面積は計約33万4000平方メートルになる。
 市は災害危険区域に指定した閖上の移転促進区域のうち、買い取り対象を震災時に実際に居住していた宅地や一体で利用した農地と規定。家がなかった土地や事業用地、独立した農地は対象外としてきた。


 しかし、仙台市など他自治体では宅地であれば更地でも取得するケースがあり、買い取りを望む住民から「基準が不明確」「不公平」などの声が寄せられていた。市はあらためて国土交通省などと協議しながら土地の利用実態を調査し、取得対象を再検討した。


 この結果、震災前に建物がなかった土地についても市は「家を建てるための基盤が整っていれば、居住していたものと同様と見なすことができる」(復興まちづくり課)と判断した。独立した農地や事業用地はこれまで同様、対象外とする。

 

■慰霊碑移設 新たな場で記憶継承・閖上中
 

 東日本大震災の津波で犠牲になった名取市閖上中の生徒14人の名前を刻んだ慰霊碑が12日、校舎敷地内から日和山の近くに移設された。土地区画整理事業で校舎が解体されることに伴う。同中遺族会は新たな場所で震災の記憶をつなぐ。


 石材業者がクレーンで慰霊碑をつり上げ、約1キロ東の市の慰霊碑に隣接する場所に搬送した。閖上中校舎を望む方角に向けて設置され、遺族会のメンバーが焼香し、鎮魂を祈った。


 副代表さん(41)は「移設は寂しいが仕方ない。14人のことを絶対に忘れず、命の大切さを伝えていく」と誓った。代表の丹野祐子さん(46)は「場所が変わっても思いは同じ。刻んだ文字が見えなくなるぐらい、訪れた人に触ってほしい」と話した。


 慰霊碑は黒御影石製。亡くなった生徒たちの生きた証しを残そうと2012年3月11日に遺族会が建立した。震災の記憶の継承に取り組む同市のNPO法人の協力を得て維持管理してきた。
 閖上中は小中一貫校として閖上地区に再建され、18年春に開校予定。慰霊碑は新校舎の敷地内に再び移設する計画という。

 

★閖上町(ゆりあげまち)は、昭和30年(1955年)まで宮城県名取郡に存在していた町。現在の名取市閖上・牛野・大曲・小塚原・高柳にあたる。

 

江戸時代に名取郡の村々は仙台藩の代官所の管轄により北方(長町代官所の管轄)と南方(増田代官所の管轄)に分かれていたが、北方31ヶ村のうち名取川河口南岸にあった5ヶ村により1889年(明治22年)、東多賀村が成立した。その名称は、同時期に成立した名取郡北方の西多賀村との方角的な対比によるものと考えられるが、詳細は不明である。なお、前記の31ヶ村のうち東多賀村を構成する5ヶ村以外は全て、後に仙台市に編入された。

明治後期から大正期に、閖上が漁業で景気が良くなり人口が急増。1928年(昭和3年)に町制を施行して閖上町へと改称した。

戦後に実施された昭和の大合併に伴い、1955年(昭和30年)に周辺の町村と合併して名取町となった。

年表
明治22年(1889年)4月1日 - 町村制施行にともない、閖上浜・牛野村・大曲村・小塚原村・高柳村の計5か村が合併して東多賀村が発足。
昭和3年(1928年)4月1日 - 町制施行し、閖上町となる。
昭和30年(1955年)4月1日 - 増田町・下増田村・高舘村・館腰村・愛島村と合併し、名取町となる。

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