杜の都ふるさと便 

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2015年3月18日彼岸の入り「平成二十三年三月十一日」と日付が刻まれた墓で合掌

彼岸の入り 津波の痕残る墓も・仙台


 彼岸の入りの18日、宮城県内の寺院や霊園では、家族連れが墓前に花や線香を供え、先祖の霊を慰めた。


 海岸線から約1.2キロ離れた仙台市宮城野区岡田の照徳寺は、東日本大震災津波で約500基あった墓石のほとんどが倒壊。大半が修築されたものの、角が欠けたりひびの入ったりした墓石も多い。


 「平成二十三年三月十一日」と日付が刻まれた墓の前では、老夫婦が長い時間手を合わせていた。


 仙台管区気象台によると、18日の県内は晴れや曇り。仙台の朝の最低気温は4月下旬並みの7.3度を観測した。


 日中の最高気温は仙台で14度、大崎市古川と白石で15度を見込む。
 19日は低気圧が東北南部を通過するため、雨の一日になるとみられる。

 

「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので昨日からではあるが急に温度が上がり始めた。

春はもうそこまで来ていますね。

もうすぐ春ですね♪~

 

★彼岸(ひがん)は雑節の一つで、春分秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)である。この期間に行う仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼ぶ。

最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」(あるいは地方によっては「はしりくち」)と呼ぶ。


起源
語源
サンスクリット pāram(パーラム)の意訳であり、仏教用語としては、「波羅蜜」(Pāramitā パーラミター)の意訳「至彼岸」に由来する。

Pāramitāをpāram(彼岸に)+ita(到った)、つまり、「彼岸」という場所に至ることと解釈している。悟りに至るために越えるべき迷いや煩悩を川に例え(三途川とは無関係)、その向こう岸に涅槃があるとする。

由来
彼岸会法要は日本独自のものであり、現在では彼岸の仏事は浄土思想に結びつけて説明される場合が多くみられる。

浄土思想で信じられている極楽浄土(阿弥陀如来が治める浄土の一種)は西方の遙か彼方にあると考えられている(西方浄土ともいう)。

春分秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。

もとはシルクロードを経て伝わった、生を終えた後の世界を願う考え方に基づいている。心に極楽浄土を思い描き浄土に生まれ変われることを願ったもの(念仏)と理解されているようだ。

しかし後述のように、天皇の詔として始められた行事であったが、いつの時代も人として、生を終えた後の世界への関心の高いことは同じであり、いつの間にか生を終えていった祖先を供養する行事として定着するに至った。

彼岸会の「彼岸」は、「日願(ひがん)」から来ているとも言える。日本に限らず古来から、太陽や祖霊信仰は原始宗教の頃からつきものなのである。仏教語の彼岸は後から結びついたものであるという説(五来重による)もある。

歴史
806年(大同元年)、日本で初めて彼岸会が行われた。このとき崇道天皇早良親王)のために諸国の国分寺の僧に命じて「七日金剛般若経を読まわしむ」と『日本後紀』に記述されている。

風習

供物

日本で彼岸に供え物として作られる「ぼたもち」と「おはぎ」は同じもので、炊いた米を軽くついてまとめ、分厚く餡で包んだ10cm弱の菓子として作られるのが一般的である。これらの名は、彼岸の頃に咲く牡丹(春)と萩(秋)に由来すると言われる。

彼岸抄

日蓮の『彼岸抄』によれば、彼岸の期間は善行・悪行共に過大な果報を生ずる特別な期間であるから、悪事を止め、善事に精進するよう勧めている。

 

 

時節

気候

日本の気候を表す慣用句に「暑さ寒さも彼岸まで」があり、残寒・残暑は彼岸のころまで続き、彼岸をすぎるとやわらぐという。

季語[編集]

俳諧では「彼岸」は春の彼岸を意味し、「彼岸」「彼岸前」「彼岸過」「中日」は春の季語である。

これに対し、秋の彼岸は「秋彼岸」「秋の彼岸」という。

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